昭和42年04月03日 朝の御理解



 昨夜福岡の秋永先生が、親教会の今度の落成式の事についての打合せやら、お届けやらのために、お参りして見えられました。そして色々あのここにも新聞が発行されてます、根賀以ですね。根賀以の編集をしておる人達と話合いをしておる。私も御祈念が済んでからでございますから、しばらくお話を聞かして貰いよりました。その中にこう云う事を言っておりますね。神の用を足せば氏子の用は神が足してやると仰ること。
 神の用を足せば氏子の用は神が足してやるという事は、自分が一生懸命に御用を頂きよれば、うちの事は神様が見て下さるんだと。そう言う様な浅はかなまあ云うなら浅ましいて云う、浅ましいて云うが、そう云う条件つきの考え方では、おかげは頂かれない。又そう云う事では、おかげ頂ける筈はないと云った様な話をしておりました。いやむしろ打ち込めば打ち込むほど、それはマイナスになるのが本当だと。
 最近の自分の上に現れてくる働きの中から云えば打ち込めば打ち込むだけ、この困った事になってくると云ったような、実際があるという事です。そうするとこの金光様の信心に打ち込む事は、考えようでは怖い事になる。打ち込めば打ち込むほど困る事になるのです。難儀な事になって来るというならば、と云うような話をしてましたけれど。それはしかし、事実なのです。
 そんな話を私聞かせて頂いてから、最後の御祈念の時にその事を神様にお届けをさせて頂きよりましたら、ご心眼に頂きますのがね。ライトのいわゆる光のない自動車後ろの自動車の光で、こう前に前進しておると言う様な姿であった。自分の運転しておる自動車にゃ光がない。後ろから来ておる自動車の光で、辛うじてその運転しておると云う様な事であった。ですからもし後ろの自動車が離れたり。
 後ろの自動車の光が、もし消えたとするならばもう自分は暗闇の中に運転して行かなければならない様なものなんだと。ただその神様の光りだけを後からいわゆる、金光大神の光りだけを持って、または神様の光りだけを持って、この自動車が進んでおると云うような事である。神様の願いとしてはこれは二代金光様、四神様の御教えの中におかげは神から出ると思うな、氏子からの心からぞと、と仰っておられる。
 おかげと云うのは神から出ると思うな氏子の心からぞと。神様がどうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰るのは、氏子自身の心の中に光りを放つような、お徳を信心を受けてくれよと云う事なんです。神様がこうやって下さるのじゃない氏子の心からぞと。神の光りで前進するのじゃない、自分自身の心の中から発揮する事の出来れる光りを持って、自分の自動車に、矢張り自分の光があって行くのが神の願いなんだ。
 どうぞ信心しておかげを受けてくれよと云うのは、愈々改まらして貰い愈々本心の玉を磨かせて頂いて、自分の心の中に徳の光りというものを頂いて、徳の光りを持ってこの世の中を渡って行けよ、又あの世までも持って行けよ、または子孫にも残して置けよというのが神の願いなのである。成る程初心の人達が良くおかげを受けます。信心も出来んのに分かりもせんのに信心の光りがあろうとも思われるのだけども。
 おかげを下さるのは、あれは天地の親神様が氏子に対する、神の権威にかけてと仰る。神はだいたいこう云う力もあるのぞと。その権威に掛けていわゆるご利益を見せて下さるのであって神様の本当の願いというのは、棚から牡丹餅のようなおかげではなくて、自分自身の心の中から生み出されて行くところのおかげ。神様から頂く光りではなく自分自身の心から光りを放って行くような。
 その光りを受けてくれよと云うのが、神の願いであり親の願いなのであるという事。又次の四神様の御理解の中には、端的ないわばそれこそ剃刀なんかで切ったような、すきっとした御理解が多いですね。二代金光様の御理解の中に、氏子がどうぞおかげを頂かせてくれいと願うから愈々、おかげを頂かせようと思うて神がめぐりの取り払いにかかると、氏子が、もうその位でよございます。
 もうその位でよございますと云うような事を云うと仰る。氏子がどうぞ真実おかげを頂かせてくれというて願うから、神がめぐりのお取り払いにかかると、氏子はもう避けようとする訳ですね。もうこの位でよございますという様な事を云うと。そりゃどう云う事かというと、沢山の借金を持っておると致しましょうか。どうぞ百万長者にならして下さいと云うような願いをするから。
 本当に神様が百万長者のおかげにでもしてやろうと思うて、その借金の取立てに神様が立ち回わりなさるというか働きかけなさる。私どもが天地に対するところのお粗末御無礼には、借金と云ったものが有ったんでは人間の幸せはない。それを教祖はめぐりと仰っておられますね。身のめぐり家のめぐり様々な難儀が起こって来る。難儀の元というのは、ただ偶然起こって来るのではない。
 そういう難儀が起こって来なければならないような、元というものを家の中に、又自分の身の上に作っておるのである。いうなら神様に対する借金があるのである。ですから借金払いに。昨日秋永先生が云うとった。先日から何十万かの商いがあった。その事を神様にお届けさして頂いた。おかげを頂いてこう云う大きな商売をさして貰ったと言うておる。そして帰らして頂いとったら、断って来たという。
 だからもう神様にお願いをすると、かえって困った事になるような事があるという事を話しております。自分の持っておる金の中から、差し引かれるのは、ちと惜しいけれども。神様がめぐりのお取り払いの為に、借金も取りに行って下さるのだから、実を云うと有り難いですよね。神様が一辺おかげを見せておいて、そのおかげの中から、差引きよりなさるという感じですよ。
 それをお取次ぎを頂いてお願いをすると、返って困った事になると云う様な表現になって来る訳なんです。ですからそう云う所をですね、巡りのお取り払いを頂いて有難しとそこを教祖は、やれ痛や今みかげをという心になれよと仰る。信心さして頂きよって見たい事が起こって来る、困った事が起こって来る時には、困った事でございますけれども、今こそ借金払いをして取り立てをを頂いておる時であると思わして貰う。
 同時に巡りの取り払いを頂いておるのであると。やれ痛や今みかげをよという心になれよと。ここのところを皆さんが私は本当に分からなければならない。信心が少し分かって、これは教祖の神様がご晩年の頃、お参りして来る氏子の一人一人に仰られた。もうその事ばかりを繰り返されたという言葉の中に、「用心しなされや、信心に身が入って来ると神様のお試しがありますぞ」とも仰有った。
 愈々試されて力を、愈々氏子のものにして下さりよるという事なんです。信心しよるのに、どうしてこんな事が起こって来るだろうか。もう神も仏もあるもんかと云ったような事では駄目だ。それこそそれを神様のお試しと思い、又は巡りのお取り払いと思い、今こそ借金の取立てをして頂きよるんだ。いわゆる借金があったんではいくら金を貯めたところで、それは貯めたが貯めたにならん。
 綺麗に借金払いが出来てそして始めて、私は頂くおかげであって、それが本当のの、いわゆる、百万長者のおかげならおかげを頂かれるのである。百万円が貯まっとっても、百万円の借金があったらあなた、何にもならんでしょう。百万長者と云えないでしよう。信心はそのように、実に微妙なところがあります。ですから、信心さして頂いて、ほんとに、ここに、思い込みを作らなければならないという事は。
 信心はしておっても難儀な事があっても、神様のご都合に違いはない。それは巡りのお取り払いの場合もあるかも知れんお試しの場合があるかも知れん。どの様な事それは私共、人間凡夫ではそれこそあい解りませんのだけれど、神様の働きには間違いがないんだと。それで一段とそこん所に、お取次ぎを頂いてお願いをして、お縋りをして行くという事。お取次ぎを頂けば頂くほど困った事になって来ると云うほどにです。
 間違いのない神様の働きをです、間違いのない神様の働きとして、頂けるところまでいかにゃいけん。ここのへんをですね、いつまでもぐずぐずしておる人がありますよ、沢山。お取次ぎを頂くとかえって困った事になると。そう云う場合があるんです。それはもう愈々神様が本当のおかげを下さろうとする働きなんです。これは私の信心を皆さん十いわゆる、二十年前かあたりの信心を皆さんが聞いて下さっておる。
 あの時分の事を思えば一番分かるのです。もうしら真剣に神様にうち向かい、しら真剣に神様のおかげを受けさせて頂こうという、本気での修行が始まり出したら、次々と難儀な事が起こって来た事だけは間違いないのです。今から考えてみると、はぁあの時に借金払いをさせて頂きよったんだな、あの時に愈々本当の神様のおかげを下さろうとする働きというものが、始まっておったんだなぁという事になるんでございます。
 ですからそこんところがです。元気な心で信心せよ信心には、矢張り勇気がいる。云うならば度胸がいる。この神様におすがりをさして頂いておってです、困った事が起こって来るならです。起こってくる事をおかげと愈々、神様に接近して行こうとする働き。そりゃなでさすりされる様なおかげばっかりなら誰だって接近しますよね。けれどもそばに寄ったらかえって困る。
 そばに寄りよったらかえってその難儀な事になって来ると云うところに、或る場合には、びくびくするような事もあるけれどもです。そこんところを信心度胸を持って、神様に愈々接近して行くという事。実を云うたらね、巡りの深い人でなからなければ神様に接近は出来ないです。それは銘々が、巡りの深い自覚に立つ事なんです。自分の家には、こんな巡りがあるのだと。
 例えて云うならばここに一つの、濡れた布巾があります。ここに火鉢に火がブリブリ起こっておると致しましょうか。どうでしょうその濡れた雑巾でもいいですね。濡れたその布巾なら布巾をです乾かそうと思って、その火のそばへこうやって持っていっても熱い事はないでしょうがどんどん乾いて行く。濡れた布巾が乾いていく。これはどうでしょう、乾いておったとしたらそばに置いただけでボーッと燃え上がってしまいます。
 自分自身の云わばこの心というのか、家というものがこんなにも濡れておるんだと。濡れておるという時でなからなければ、神様は火に接近する事は出来ません、火に接近して始めて神様が良く分かるのである。遠くから見とったんじゃ分からん。そげんあんたやぁやぁ言うちから参らんでんもう悪か事さえせにゃこて、神様はそげな罰かぶる様な事じゃなかがのと。私や信心なせんばってん正直で行きゃあ良かがの。
 いわゆる正直な頭に神宿ると言うから、もう正直さえしときゃこの世は良かがのという様な事ではない事が分かる。実際神様の御教えというものに照りあわせて見ると、果たして自分が正直であると思っておった、その正直が正直ではなく、不正直である事に気付かせて貰う。こんなもんじゃない事に分からせて貰う、そこで自分自身のような巡りの深い者はない、巡りの自覚に立たして頂くとです。
 めぐりの自覚が分かれば分かるほど、神様に接近が出来るのですこれは。ところが自分にはもう巡りがないごと思うておる。自分な良かつのごと思うとるところに、神様の側に寄る事が怖くなって来るです。もう燃えて来るもう本当に私のような、例えば親鸞上人様なんかは、ああ云う人から生仏様と云われる様なお徳を受けられてからでも、自分の様な悪人はないと。自分は日本一の大悪人だと悟っておられます。
 これは私共でもそうです。もう思えば思うほど私のようなもの、私のごたるきたない人間をよう神様は、ここまでお取立て下さったもんだと不思議に思うくらいである。ほんなら十年前二十年前そげんな思うとらじゃった。自分な良かつのごと思いよった。ところが信心が分かれば分かるほど、自分自身の心の汚さがはっきり分かって来る。いわゆる先程から云う、自分の心の光りというものが頂けるようになるとです。
 その光り自分の内容の埃やら塵やらがよう判ってくるようになる。どんなにこのお広前が、散らかっておっても電気が消えておったら。ゴミがしておるやら散らかっておるやら判らん。パアーッと電気がつくと何と散らかっておる事じゃろうかという事が判るようなもんなんです。自分自身の心の中に信心の光りが少しでも灯って来るようになると。愈々、自分のようなものが、自分のような汚い者がというところから。
 云わば平身低頭誰の前にでも、実意丁寧を尽くさなければ居られなくなって来る。もうえばる段出来ん自分のようなものがという事になって来る。そういう巡りの自覚に立たせて頂く時にです。愈々神様に平身低頭そのお詫びをしていく姿というか、愈々神様に接近して行く。濡れておれば濡れておるだけです火はそばに持って行っても、燃え上がらない様なものなのです。
 神様に接近をするから、神様の先日からの御理解のように、いわゆる神様の懐の中に飛び込んでいけれるのである。そこに愈々私どもの安らぎというものが頂けれる。だから安心の大みかげを蒙むるとか、日々平静心を持って安らぎの生活が出来るというのはです、神様の懐の中に飛び込まなければ出来ん。それには先ず自分自身のめぐりのお取り払いを頂かなければ出来ん。
 だから願えば願うほどお取り払いを頂くという事実が、秋永先生が云うて居られるようにあるんです。愈々お取り払いでも始まったという事は、もう愈々神様の本当のおかげが頂けれるんだという事が判る。そこんところをです楽しみに信心させて頂ける。ほんなら私の二十年前の自分の事を自分で思うて見る時です。どんなに難儀な中にあろうが、困った事になろうがですもうその事がもうその事自体が。
 もう有難うしてこたえなかったです、私は。だからそこをやり抜けたんだとこう思うです。もう度胸も要らないくらいである。お互い信心の度胸を、しっかりしときませんと、信心しておっても、例えばどう云うお試しがあるやら判らん、どう云う取り払い受けるやら判らん。その時にです、お取り払い受けて有り難しと、それを受けていけれる元気な心、元気な信心が必要なんです。
 大川の岡と云う家具屋さんがあります。福岡教会の総代さんです。四回、火事に遭われた。遭われる度に、その店が大きくなって行った。それこそ、お取り払い頂いて、有り難しという事なんです。自分方が、火事でどんどん焼けよる時に、自分な、その火事を見ながら、帖面に次の計画をされた。次には、どう云う工場を建てようと。どういう住宅を作ろうと。その第一番に、何時も書いておられる事はです。
 御礼のお初穂幾ら幾らという事が一番口だったそうです。自分方の火事の焼けようとを見てですよ。御礼の例えばお供えを幾ら幾らという事が、一番に書かれたという事です。あがしこ信心しよるとに何辺でん火事に遭うてからと言うならです。もう本当にもう焼け切ってしまって、もうお終いになってしまうでしよう。それをそういう風な頂き方が出来るところにです。私は云わば焼け太りというかかえっておかげを、いつの場合でも頂いておられるという事になるのですよ。
 信心の稽古をさせて頂くという事はです、本当の事が判って行く。先ず自分自身のほんとの姿が判らなけりゃいけません。同時に、本当の神様のお心というものを判らして頂いて、どうぞおかげを頂かしてくれと云うて願うから、愈々おかげ頂かしてやろうと思うて、借金取りにかかるとです、もう氏子が、もう結構でございますという様な事を云う。それではいつまで経っても、本当のおかげにはならんという事が判りますですね。
   どうぞ。